心臓に先天性の疾患をもって生まれてきたわたしは今まで急性心停止を3回経験していて、蘇生措置までの間の意識が薄れていく中で毎回おなじ光景をみている。それが夢なのか現なのか?はっきり分からないけれど、わたしはその時の状態を「ビジョン」と呼んできた。

5歳の時に近所の公園で倒れた時は母親や幼馴染みが、9歳の時に東武動物公園で倒れた時はアフリカ象が、そして、15歳の時に通学路の堤防で倒れた時は草花が、わたしの目の前でみんな同じように溶けていった。「溶ける」といってもアイスクリームみたいにではなくて、なんというか、人や動物や植物から名前とか意味みたいなものがどんどん剥がれていって、中から本来の姿が現れてくる、そんな感じだった。

その本来の姿は形がはっきりとしていないのだけれど、すごく光っていて、人も動物も植物も、不思議とみんな同じイメージだった。私はこれに当てはまる言葉をずっと探してきて、最近になって『存在』という表現が一番ぴったりくることにたどり着いた。

『存在』とはこの世に在るということ。
この世に在ることの根源的なエネルギーの世界。
これがビジョンの正体だと思う。

だけど問題は、わたしが死に向かう途中でビジョンをみてきたこと。
なぜ死の過程でこの世に在ることの根源に直面したのだろう?
そのことばかりずっと考えてきた。

地面に倒れ込んだ時、わたしの体は動かなくなって何もできなくなってしまった。わたしはわたしの体が自分のものではなくなるような物凄い恐怖に襲われた。だけど、毎回恐怖に逆らうことをあきらめると、ビジョンが現れて、その度に不思議な懐かしさに包まれた。

ビジョンはとても明るい世界だった。あらゆるものが発光していて、全てが結びついているのが直感で分かる。見たり聞いたりしようとしなくても、人も動物も草花も風も川も山も、みんなが繋がっているのが分かる。

そして、その繋がりはあらゆる怖れから解放されていて、生まれることの歓びで溢れている。
そうか。あそこはきっと天国なんだ。
いっさい曇りのない朝の中で、開闢だけが繰り返されている。

だとしたら、死は終わりではなくて永遠への入り口に違いない。
自分という限界を超えて光と一体となるための過程に違いない。

(K.F. 埼玉県 学生)