東京から来た鳥

SNSで始めて彼とメッセージのやりとりをした時は、軽い暇つぶしのつもりだった。だけど、何度かメッセージを交わすうちに、そんなに悪い人じゃないな、と感じてきた。お互いが好きなバンドがたまたま一緒だったこともあって、気がつけば毎日のようにメールのやりとりするようになった。彼は東京の椎名町という所にある不動産屋さんに勤めていて、営業をやっていた。高校を卒業した後、もし東京に出てくるのであれば、いい物件を紹介してくれると言っていた。でも、あたしは上京しないで地元のスーパーマーケットに就職した。

勤めだして数ヶ月がたった頃、あたしと彼が好きなバンドが横浜アリーナでコンサートをやることになった。彼は頑張ってチケットをとるから一緒に見に行こう、と誘ってくれた。あたしは少し迷ったけど、彼とコンサートに行ってもいいかなと思った。

コンサートは土曜日の15:00開場だった。あたしは前もって職場の主任に話をして、金曜日から日曜日にかけてお休みをもらうことにした。彼もそれに合わせて有給をとってくれた。1月26日の金曜日のお昼頃、あたしは下今市の家を出た。彼とは新宿駅で待ち合わせをしていた。金曜日に東新宿で前泊して、土曜日は横浜でコンサートを観る。そのあと、東新宿のホテルに戻ってもう一泊して、日曜日の午後に群馬へ帰る。そういうスケジュールだった。
東武特急に乗り、北千住に向かう間、窓の外の景色を眺めながらウォークマンでバンドの曲を聴いた。この曲を生で聴けると思うとワクワクした。でも、今日これから実際に彼と会うことを思うと、すこし緊張した。アーミーっぽい柄のジャンパーを着ている。念のため、彼にメールでそう伝えておいた。じゃぁ俺はバンドのメンバーが好きなブランドのキャップをかぶっていくね、と彼は教えてくれた。

新宿駅の南口で手を振る彼の姿を見た時、ぜんぜん緊張していない自分にすこし驚いた。一年以上のあいだメールやチャットで色々なことを語りあっていたので、なんだか、ずっと昔からの友達のような感じがした。なにより実物の彼は本当に優しい人だった。それに大人の落ち着きがあった。あたしより4歳年上だったけど、もっと上の人のような安心感があった。

挨拶を交わした後、ルミネの最上階にあるレストランに二人ではいった。久しぶりの都会で、あたしは疲れていた。彼も気をつかってくれて、早めの夕飯をとることにした。ちょっと高級な感じのハンバーグを食べながら、彼はこれまでに仕事で出会った色々な面白い人のことを話してくれた。彼のユーモアのセンスと、知識の多さに改めて感心した。話は上手いし、顔もいい。身長もそこそこ高い。どう考えてもモテないはずがないと思った。だから何故あの時、出会い系サイトなんかに書き込みをしたのか、さっぱり分からなかった。「じつはあの少し前に、ずっと付き合ってた彼女と別れたんだよね…」話題がこれまでメールでやりとりした内容になって、どんどん以前の話にさかのぼっていったところで、一瞬の沈黙があって、彼は口を開いた。なんだかすごく寂しい気持ちになっちゃってさ。そう言う彼の顔を見た時、この人は本当に正直な人なんだな、と思った。

ルミネで食事をとった後、彼はあたしをホテルまで送ると言ってくれた。「あっ、やましい気持ちはないから心配しないでね」と彼は笑顔でつけくわえた。もちろん、あたしは安心してお願いした。東京の夜の雑踏を一人で歩くのは、とても心細い。「東新宿のアパホテルだと、ここから歩いていけないことはないけど、週末の歌舞伎町はメチャ混んでるから、とりあえず山手線で新大久保まで行って、そこから歩いて向かおう。」彼はそう言って、あたしの旅行バッグを持ってくれた。そして、二人でルミネの一階からJRの方へ向かった。

山手線はとても混んでいるように感じた。帰宅途中の人々でいっぱいの車内で、あたしは露骨に不快な顔をしてしまった。「大丈夫、大丈夫。一駅で着くから、少しの辛抱だよ」あたしの様子を見てとった彼がそう言ってくれた。彼が言うとおり、新大久保駅にはすぐに着いた。ホームの向こう側に、大きなガムの看板が見えたのをおぼえている。そして、彼があたしを先導するようにして、ホームの真ん中にある階段に向かって足を進めたその時だった。
「線路に人が落ちたー!」
大きな叫び声が聞こえ、あたしは背筋のあたりがビクッとした。すると、目の前にいた二人の男の人が、すぐさま自分のバッグをホームに投げ捨てて、何の迷いもなく線路に飛び降りた。若いほうの男の人が投げたショルダーバッグが、あたしの膝のあたりをかすめた。この時、内回りの電車はすでにホームに入ってきていた。キィィーという激しいブレーキの金属音が耳をつんざく。あたしは何がなんだか分からないまま、呆然とホームに立っていた。

「見るなっ!」

その瞬間、線路の方に体を向けたままのあたしの顔を腕で覆うようにして彼が目の前に立ちふさがった。あああぁ、という嗚咽のような声がホームに響く。まるで世界中の時間がストップしてしまったように、ホーム上の何もかもが静止していた。
頭が真っ白になってしまって、この後の記憶はほとんど無い。彼はあたしをタクシーに乗せ、ホテルまで送ってくれたらしい。途中、タクシーの車窓からオレンジ色の街灯が流れるように見えたのだけは何故かおぼえている。彼はホテルまであたしを送ると、よっぽど心配だったのか、近くに泊まってくれたみたいだ。「今晩はホテルのすぐそばのサウナに泊まります。何かあったらすぐに連絡して」という彼からのメールが携帯に残っていた。翌日、あたしたちはコンサートに行かなかった。二人ともとてもそんな気分にはなれなかった。あの時、線路に飛び降りた二人の姿がスロモーションで何度も頭をよぎり、その都度、誰かに心臓を思い切り掴まれているような、とても息苦しい気持ちになった。
結局あたしはその日の午後、東武鉄道で下今市に帰った。特急の車内の電光掲示板に、昨晩のニュースが流れていた。お酒に酔ってホームから線路に転落した男の人と、その人を助けようとした日本人のカメラマン、そして、韓国人の留学生が電車にひかれて死亡した。ニュースはそう告げていた。

翌週の月曜日、職場に行ったものの、全然仕事に身が入らなかった。どうしてもあの日のことを考えてしまって、仕事だけじゃなく、すべてのことに集中できなかった。彼からは引き続きメールをもらっていたけど、だんだん返信するのが遅れていった。すると、彼の方からも徐々にメールがこなくなっていった。
そして、あの日からふた月ほど経ったある日の夜、職場から帰る途中、自宅の裏手にある雑木林の中の駐車場にクルマを停めたところでハッとした。目を凝らすと、10メートルくらい手前の木の枝に、丸くて大きな目をしたフクロウがとまったいた。フクロウは置物のように静かに佇んでいて、あたしの方をじっと見ているような感じがした。フクロウと出会ったのは、子供の頃、地元の山にお父さんとハイキングに行ったとき以来だった。「フクロウはね、音をたてないで静かに飛べるから、絶対、獲物に気づかれない。とても賢い鳥なんだよ。」あの時、お父さんはそう教えてくれた。

次の日、雑木林にフクロウの姿はなかった。その次の日も…。だけど、何日か経った日の夜、あのフクロウがこの前と同じ木にとまっていた。フクロウはまたあたしの方を、ただじっと見ていた。そして、やっぱりこの前とおなじように、翌日には姿を見せなかった。こんなことが繰り返しひと月くらい続いた頃、あたしは自分の日記を見返してみて、あることに気づいた。フクロウが現れるのは、決まって金曜日だった。

案の定、翌週の金曜日の夜にフクロウはいた。あたしは思いきって木の方に近づいてみた。すると、目の前のフクロウが、それまでのとは違うフクロウであることに気づいて、声を殺して驚いた。以前のフクロウは眼の色が金色だったのに、この日のは黒い眼をしていた。体の大きさや、顔の雰囲気は似ていたけど、明らかに別のフクロウだった。

その翌週の金曜日、さらに信じられないことが起こった。仕事の帰り、いつものように駐車場にクルマを停め、木の枝を見あげると、金色の眼のフクロウと黒い眼のフクロウが横に並んで一緒にとまっていた。最初あたしは目の前の光景が信じられなかったけど、何度見なおしてみても、あのフクロウたちで、これは決して夢や幻じゃないと思った。

二羽は横並びになって、じっとしたまま正面のあたしを見ていた。こんなことってあるんだな…。そうだな、やっぱり訊いてみよう…。アパートに戻り、ハーブの入浴剤をいれたお風呂の中で、あたしは心を決めた。早く夕飯を食べなさい、とキッチンからお母さんが声をかけてくれたけど、お風呂から出るとスウェットに着替えて、おもてに出た。誰もいない夜の駐車場は、雑木林から届く冷えた土と葉の匂いがして、温まった体に心地よかった。なんだか、自分と周りの空気との差がなくなって、月夜に溶けてゆくような感覚に包まれて、一瞬なんのためにここにいるのか忘れそうになったけど、すぐに目的を思い出して、自分のクルマの方に向かって、いつもの木に近づくと、二羽のフクロウは枝の上でまだじっと止まっていた。その眼は月の光を反射して青白く輝いていて、何かすべてを見通しているような不思議な感じがした。

「ねぇ、あなたたち、あの時の二人でしょう?」

あたしがそう訊くと、二羽のフクロウは音も立てず大きな翼を広げて、暗闇の中へ一緒に飛びたった。

(S.Y. 群馬県 スーパーマーケット店員)