罪
近しい人を亡くして、強い罪悪感に苛まれているのであれば、それはあなたがその人にそれだけ大きな愛を注いでいた証拠である。
近しい人を亡くして、強い罪悪感に苛まれているのであれば、それはあなたがその人にそれだけ大きな愛を注いでいた証拠である。
金持ちも貧乏人もみな一律に裸で生まれて来て、火葬場で服を焼かれ裸になって死んでゆく。こう考えてみると人生は壮大な『裸祭り』と言える。人生を「天下の奇祭」と捉えれば、かなり気が楽になってくる。
酷く心が疲れているのであれば、まずは身体を温めろ。そして他のことはどうでもいいから、只ゆっくりと食事をとることに集中しろ。そうすればじきに眠れるようになるだろう。そして、明日の朝にはそれまで浮かんでこなかった知恵が生まれ...
時間、貨幣、土地…。元々どこにも線引きされていなかったものに対して勝手に意味づけをして右往左往しているのが現代社会。そんな偏狭なものに魂を売るのは馬鹿げている。人間は本来もっと外部に開かれた存在だったはずである。
徳が高い人ほど苦難や不幸に見舞われるものだ。
本当に頭の良い人物ならば馬鹿でも分かるように物事を説明できるはずである。
あなたが生まれて初めて出会った他者は、あなた自身である。だから、あなたはあなた自身を観察することができるはずだ。
医者にもどうにもできない。死は病ではないから。
不自由だからこそ爆発できる
弱いからしなる。強いから折れる。
経済的に裕福な人間であろうが、貧しい人間であろうが、すべての死は平等にうす汚い。生そのものが機能を停止するからだ。そこに人間存在の本当の姿をみる。
人間はそもそもスピリチュアルな存在である。その証拠にキャンプの際に焚き火をみれば気持ちが落ち着く。水場が近くにあれば心が落ち着く。それは自然の精霊への交歓回路が生きている証拠だ。
人類が鋼(はがね)を必要としたのは、生物的に弱い存在だったからだ。
飽きてしまうものと、そうではないもの。その境界は「ナチュラルさ」にある。人間は身体に不自然なものに対して長くは付き合えない。
刃物ほどインテリジェンスが問われる道具はない。なぜならば極めてシンプルで尚かつ扱い次第で危険な存在となるからだ。
普段は体たらくなオッサンであったとしても、いざという時に困っている人を助けにいく奴が最も崇高である。
道具は身体の延長。刃物は手の延長。ナイフ選びに迷ったら「手でどのような作業をなし得たいのか?」を考えたうえでチョイスすれば良い。
いくら叱責されたとしても、その人が自分の人生の責任をとってくれるわけではない。また、いくら相手のせいにしたところで、その人が自分の人生の責任をとってくれるわけでもない。
刃がすぐ鈍ってしまう質の悪い鋼材の場合、あきらめてしまうのではなく肚を据えて、まずは研ぎ方を変えてみる。
よく宗教家が口にする「すべてに感謝して生きる」という姿勢は、「完全にアホになって生きる」と同じことのように思える。例えば、仕事でミスをして大クレームとなり、上司に怒鳴りつけられた時、なんら動じることなく「部長、叱咤激励マ...